それも愛

性懲りもない日々をつらつらと

源氏物語を読んでみた

田辺聖子版の「源氏物語」を読んだ。現代語訳はたくさん出ているが、やはり女性が書いたものがいいと思ったし、全5巻と手軽だったせいもある。

田辺氏の柔らかな意訳が上手なせいかスイスイ読めた。六条御息所が葵の上に取り付くくだりなどはドキドキしながらページをめくった。

主人公の光源氏始め男たちは類型的であまり魅力的ではない。それぞれ気性の違いはあっても、所詮一番の優先事項は出世と女だ。登場人物で唯一関心できるのは、変わり者の明石の君の父親くらいだった。(大願のため全てを尽くす)

それに比べれば女性たちはそれぞれの個性・生き方の違いがよく描かれていて興味深かった。

嫉妬に狂う女、気位が高く本心を表せない女、気はきかないが一途で純な女、ひたすらよき妻(もしくは恋人)としてふるまう女・・・

その後読んだ瀬戸内寂聴の「源氏物語の女たち」によると男性に人気があるのは、朝顔の君と紫の上とのことだった。どちらちょっとはかなげな美人でかつ男に尽くすタイプで、今の世でも確実にモテるタイプだろう。

僕は、朧月夜の君が魅力的だと思った。立場のある身ながら源氏との危険な恋に積極的に身を投じながら、最後はさっさと出家してしまう。情熱的でかつ精神的に自立した女性だと思う。

あとはエリート官僚の源氏や頭中将を手玉に取るセクシーおばさんの源典侍が痛快だ。

仕事ができて教養もあり、しかもいつまでたっても肉食系の元気女子のキャラが現代的だが、そんな女性が1000年前の日本にもいたんだなと思った。

この世の栄華を極め数々の華やかな女性遍歴を重ねた光源氏だが、年をとり引退後最愛の妻を無くすと、すっかり気力もなくなり程なく雲隠れしてしまう。「もののあわれ」と言うより、男とゆうものの弱さが感じられ、そうゆう年代に差しかかった自分を省みて少々心もとなく感じる、そんな読後感だった。

コミュニケーションの手段が和歌中心の時代なので、文中に和歌ががたくさん出てくるが、今ひとつ意味がわからないものが多かったので、次は和歌の解説が詳細だという瀬戸内寂聴版を読んでみようと思う。

 

 

 

自転車とバナナ

最近試していることが二つある。

週一回の自転車通勤と、バナナを平日一本食べること。

家からオフィスまで10キロメートル、自転車で時間にして30分弱。疲労を感じるちょっと前くらいのちょうど良い感じの運動だ。

今は、通勤経路を探るのが面白い。車と違って走れる道が格段に多いので、信号や車や人の数など走りやさを考慮してベストルートを開拓中だ。

 バナナは改めて食べると結構うまい。会社の冷蔵庫に入れてるので、よく冷えていてアイスのようで爽快感があるのかもしれない。

バナナはカリウムを含み高血圧にいいと聞いた。僕は以前行った病院で血圧降下剤を飲むかどうかギリギリの線ですと言われてそれ以来、その病院に近づかないようにしてるので、まあ薬代わりとゆうわけだ。

自転車は週一ってのがみそだ。これが毎日行かなきゃならん、となると早晩燃え尽きる気がする。週に一回のお楽しみなので続けられる気がしてる。

バナナはきっとそのうち飽きるだろう、その時はまた違うものを考えればいい。

 

ゆきさんのこと

今はもうなくなってしまったが表参道にハナエモリビルがあり、その地下にさなざまな骨董屋が居並ぶアンティークマーケットがあった。

その店の一つが「ゆきむら」だった。10年ほど前上品なたたづまいの店に引き込まれるように入ると、細身の女主人・村上ゆきさんがいた。いちげんさんでしかもその世界に全く素人の僕に丁寧に対応してくれた。それから年に何点か気に入ったものを購入するようになった。骨董と言っても江戸時代とかのそれなりのものは手が届くわけなく、戦前のまだいい職人がいた頃の香炉とか竹細工の花器や朱塗りの食器とかだ。

ゆきさんはたいした買い物をするわけでもない僕をなぜか気に入ってくれたみたいで、顔をだすとお茶をだしいつも機嫌よく、品物の話以外にもいろんな昔話などもしてくれた。

ゆきさんが故郷の京都にいる頃、僕の故郷の福岡まで汽車で行った時のこと。

その後、青山学院に入学し、神宮外苑で行われた学徒出陣式に行ったこと、などなど。

断片的に話を聞くとどうやらご主人を戦争で無くしているようだった。戦後女手一つで表参道で骨董屋を切り盛りしてきたそうだ。(新参ものの女性で、いかにも古いしきたりのありそうな業界で苦労したことは想像にかたくない)

店に置いているものはゆきさんの好みで、上品なもの多かった。キワモノとゆうかえぐい感じのものは嫌いですと言っていた。時々店で会う馴染みのお客さんは立派な風体の人が多かった。(大学の教授とか)

店にはもう一人長谷川さんとゆう男性がいて、話をすると僕の大学の少し後輩で、学生時代にアルバイトで店にきていて、そのまま店に就職したとゆう変わり種だった。

長谷川くんは言葉少なな青年だったが、ゆきさんを尊敬し敬慕している様子が見て取れた。その後ハナエモリビルが建て替えになり、アンティークマーケットも姿を消し、店は移転したがお店(ゆきさんと長谷川さん)との付き合いは続いた。

ゆきさんは90歳で長谷川さんに店を譲った。ゆきさんの家は原宿にあり、一人暮らしのゆきさんの家を長谷川さんは毎日のように訪れ、なにかと面倒を見ていたようだった。時々街で、長谷川さんが少し体が弱ってきたゆきさんの手をとって歩く姿を見かけたものだった。

ゆきさんは今年、誕生月の2月、誕生日を迎えることなく亡くなった。93歳だった。

亡くなったあと長谷川さんに聞いて驚いたのだけど、ゆきさんのご主人は旧日本軍の軍医だったらしく、国外で捕虜収容所の所長をしていて、日本にゆきさんと引き揚げてきたのち、いわゆるBC級戦犯で有罪となり刑死されてたのだった。(長谷川さんはこの話を僕にする前に「おかさん、○○さんにこの話をしていいよね」と天に向かって声をかけた。プライベートではおかあさんと呼んでいたんだ)

ゆきさんはいつも朗らかな人だったが、どこか凛としていて奥に強い何かをひめている感じがしていたが、そんな苛烈な人生を歩んだのかと改めて感慨を覚えた。

ぼくは「ゆきむら」からゆきさん好みだった小村雪岳の版画2点を購入しているが、そのうち「蛍」に描かれた和服姿の細身の女性をみるとゆきさんのことを思い出す。 

 

 

 

気になる女

中野始発のバスに乗り後方の席に座ると、ほどなく女が乗って来た。

別にバスに女が乗るのは空から雨が降るのと同じくらい珍しいことではないが、わざわざブログに書くのはそれなりに印象的だったからだ。

女は中年どまんなか(四十半ばくらい)で顔は夏木マリに少し似てた。もし夏目雅子にそっくりだったら、それはすぐにでも友達に話したくなるくらいの出来事だが、夏木マリならそれほど大それたことではない。(ただし僕の旧友で夏木マリの信奉者にして現在僧侶をやってるFだったら胸をときめかせただろう。彼の部屋には昔等身大の手招きする夏木マリのポスターがあった)

女は僕の前の席に座った。まず目についたのは赤系の茶髪いわゆる亜麻色の髪だった。「亜麻色の髪の少女」と言うくらいだから、中年ど真ん中にはどうかと思うが、それは個人の自由だ。

服は、白地に大きな花柄が入ったノースリーブのワンピースだった。これも中年どまんなかにしてはやや派手だが、夏らしいとも言えるので、まあ許容範囲だ。

膝丈は短めですらりと伸びた足は合格点だった。これには全く不満はない。

ただすらりとした足の先の靴に少し違和感があった。ゴールドとシルバーの中間くらいの色の光物のパンプスだった。

僕もシルバー系のスニーカーを持っていたことがあったが、それを履くときは全体的にはやや地味目の服装にしてバランスを取ってたつもりだ。

亜麻色の髪、白のノースリーブのワンピース、光モノの靴、そして顔は夏木マリの組み合わせは、どうしても僕にはアンバランスに映った。

そんなハデ系な装いにしては口紅は無色系だった。

車内でせわしげに見てた携帯電話はかなり派手な赤だったのに(こうゆう場合、ルージュは赤いのが定番な気がするけど)

その赤い携帯を見つつバス停の車内表示を確認していた。おそらく初めての場所にいくのだろう。

この路線は普通の住宅地を走るバスなので、乗ってる人もまあほぼフツーの感じの人がほとんどだ。なのでこの夏木マリ2号は僕から見るとかなり浮いていた。

こうゆうときはどうしても割り切れない感じがする。

なぜこのバスに乗っているか?目的は何だろう?(ただの帰宅ではなさそうだし)

こんなときホームズやワトソン君なら彼女の職業や乗車の目的を三つくらいにしぼれるのだろうが・・・

夜型の飲食系のお仕事の出勤前に急に人に会う用事ができて、初めての路線に乗ったマリちゃんかなあ、用事が済んだあとで赤い口紅をさすんだろうな、などと考えているうちに、肉屋の前にあるバス停で彼女は降りた。

さよならマリちゃん、きっともう会うこともないだろう。

 

 

 

富士吉田火祭りロードレース

富士山の麓、最近では「吉田うどん」でも有名になった富士吉田市でのハーフマラソン大会に参加した。

夏のレースは昨夏、清里で行われたハーフマラソンに参加して暑さと高低差にノックアウトされ、「夏はマラソンなんて走るもんじゃないな〜」と思っていたのに、知り合いから「山中湖にあるリザートマンションに前泊して前夜祭で盛り上がって、翌日みんなで走りませんか?」とのお誘いについのってしまったわけだ。

前夜祭は楽しかった、参加者5名でシャンパンや地元甲州産のワインでワイワイと話も弾んだ。参加者の一人に世界的にも過酷だと言われる砂漠の耐久マラソンに参加している人がいて貴重なエピソードをきけた。今回も次のチリの3000メートル高地での砂漠レースに備えて、10キロの重量をバックに詰めてハーフマラソンを走るそうだ。

レースは予想以上にキツかった。高低差のあるコースで前半の6キロ続く急坂には参った。前半で体力を消耗してしまったようで、後半のくだりでもあまりスピードが出せなかった。ラストにまた傾斜はそうでもないが2キロの登りがあり、もうだいぶバテいたので何度か歩いてしまった。

レース後は会場で吉田うどんが振る舞われた。太く粘っこく、ほうとうを丸くしたような麺だった。(味はフツーです。素朴な味わい)

火祭りとは武田信玄ゆかりの浅間神社で前夜行われたお祭りのことで、その流れで翌日吉田市の主催でハーフマラソン大会が行こなわれているようだ。

火祭りの翌日に「血祭り」にあった夏のマラソンだった。あ〜シンド!

夏の夜の折尾堀川

久住山を登り、その後博多での打ち上げが終わり、JR博多から帰途についたが、もちょっと飲むかと折尾駅下車で2次会へ。

北九州市の西の端にある折尾は高校時代通ったところで、風情のあった木造駅舎は今建て替え中だった。列車を運行しながらの建て替え工事は、まるで生きてる人間を人造人間に作り変える手術をしているみたいで、少しグロテスクな感じがする。

東口を出るととすぐ懐かしい堀川が見える。川沿いに昭和レトロな飲み屋が並ぶ昔ながらの風景だ。かっては川沿いに柳の並木があったんだけど、今はない。どうして切っちゃたんだろう?もともと狭い道なので通行上そうしたのかなあ、と無粋な行政を嘆き、店を選ぶ。

堀川沿いは角打ち(酒屋の店先での立ち呑み)でも有名だが、高校時代はさすがに酒場とは縁がなかった(たまには少しこそっと飲んだけど)。

店定めをしながら歩いて行くと日本蕎麦屋があった。母校の先輩が脱サラで出した評判の蕎麦屋があると聞いたのを思い出して、入ってみた。

一次会で腹はいっぱいだったので、自慢のお蕎麦には至らなかったが、つまみ類も美味だった。ご主人は高校の3年先輩だったが、ちゃんと客としてもてなしてくれた(当たり前か)。話をすると、高校時代所属していたラグビー部で一学年上にいた先輩のお兄さんだった。

その店自体も、そのラグビー部の先輩の家で以前は乾物屋だった建物を改装したものだった。以前の乾物屋だった頃の店先が目に浮かんだ。

駅舎が建て替わると同じような時にその乾物屋も蕎麦屋に変わっていたのだ。

同行した高校の同級生とともにご主人と母校にまつわる話題に花を咲かせ、暑い8月の夜のひと時を懐かしく楽しんだ。

 

 

尾瀬ぶらり遊歩

4度目の尾瀬だった。

だいたい旅は最初におとづれた時のことが印象深いものだが、尾瀬会津高原駅から入るルートで秋の燧ケ岳を登った最初の時のことが印象深い。

今回は初めて一人歩きの尾瀬だ。

関越の沼田インターから40分程走り、ケーブル斜張の美しい尾瀬大橋を渡ると「ああ尾瀬に来たな」と思う。片品温泉郷に入り徐々に高度を上げて行くと旅館や民宿が目立ってくる。

尾瀬ヶ原へはマイカー規制があり戸倉からタクシーかバスで入る。

その戸倉の発着所の目の前にある旅館「玉泉」に泊まった。

名前は立派だが、旅館とゆうより民宿に近い家族経営の宿だ。

ここの女将さんとご主人が(といっても若く30代かな)とても親切で感じがよく、すっかり気に行った。眺望はないが泉質が良い掛け流しの温泉も気に入った。

尾瀬のガイドもしている女将さんに尾瀬の情報もあれこれ聞いて翌日の参考にした。

翌朝、乗り合いタクシーで鳩待峠に入り、雲上の楽園とも称されるアヤメ平に上がり尾瀬ヶ原に降りるルートを歩いた。アヤメ平はお花畑だった。尾瀬といえば6月の白い水芭蕉と7月下旬の黄色いニッコウキスゲが有名だが、7月上旬は様々な高山植物が咲き乱れる素晴らしい季節だ。

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アヤメ平は尾瀬散策のメインになっている尾瀬ヶ原湿原からは500メートルくらい高い場所にある。湿原を繋ぐルートに一部悪路もあるせいかあまり人気がなく、その日も平日だったこともあるが他人と出会ったのは1度だけだった。(山登り系の人はこのルートを好む)

尾瀬ヶ原に降りると小学生や中学生の団体が何組かガイド(自然観察委員)を伴いワイワイと楽しそうに木道を歩いていた。

尾瀬は水利権を持っていた会社を継承した東京電力が土地の4割くらいを所有している。その関係で尾瀬の木道の多くの部分の整備を東京電力が担ってきた。以前なら「そのくらいやってね、東京電力さん」でよかったが、原発事故後、今でも木道整備事業を行なっている姿を見るとなんだか複雑な気分になった。

だだっ広いがさまざな表情を見せる尾瀬ヶ原の風景に足を止めつつ木道を踏みはずさないよう、足早に歩いた。ビジターセンターのある山の鼻から1時間登って20キロのコースを遊歩し鳩待峠に戻った。帰りはマイカーなので、ビールとか行かずソフトクリームで一人乾杯をして鳩待峠を後にした。

尾瀬独行は心和むいい人との出会いがあり、自然にどっぷりひとり浸かることもでき、満足度の高い旅になった。