部屋の中でじっとしていられないのが不幸の始まり
イケメン哲学者 國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」を読んだ。
タイトルは「人間は考える葦である」で有名なパスカルの分析だそうだ。
パスカルの言う通りだとすると、ぼくは全く不幸な人間になる・・
飽きっぽくてじっとしていられないたちだ。小学生のころ通知表に「向上心はありますが少し落ち着きがありません」と書かれたことがある。
今でも一日中家にじっとしていることができない。
この本によると、
人は遊動生活(=狩猟)から定住生活(=農作)になってはじめて暇(自由な時間)を手にいれた。(毎日未知の土地へと移動する遊動生活では常に新しい環境にアジャストする必要があり、農作のようにこの作業をやれば今日は終わりってことがない。)
そして産業革命以降の飛躍的な生産性の向上や、階級社会の解消によってさらに大いなる暇を大衆が享受する時代が到来した。
暇とはやることがないという状態のことで、退屈とはそれをつまらないと感じること。暇=退屈と感じるのは人間の感性の特徴だ。(犬や猫は暇でも退屈しない)
この退屈の解消のため人は生きるに必要じゃないことをつぎつぎと考えだす。
スポーツ、観光旅行、テレビ、ネット etc.
いろんなんことに手をだすのだが、大体においてはそれらを面白いと思い込もうとしてる。
國分氏は酒場で、サッカー中継を見て興奮しているようで、そのじつ心底から楽しんでいるようにはみえない男に出会い、退屈と暇についてのテーマを思いついたそうだ。
さすが哲学者、酒場でも哲学してるんだ!
消費社会では、退屈を解消してくれるかのような膨大な商品が提供され、人々はもっぱらそれを消費し続ける。テレビやゲーム、携帯電話はその典型、つまりは暇つぶし。
これは深刻な永遠のテーマなのかもしれない。
最近では始終携帯画面から離れられない人が目につくが、これも人間の本性にもとづいた行為なんだ。
ただ同じヒマつぶしでも、自分の納得のいくヒマつぶしをしたいもんだ。
ただその場限りの興奮ではなく自分なりの真の快楽を探せるといい。それはそんなに安易に手に入るものでもないだろうと思う。
例えばすばらしい芸術は最高の暇つぶしだろう。