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それも愛

性懲りもない日々をつらつらと

スコセッシ vs 狐狸庵先生

映画「沈黙」を観た。

監督のスコセッシは僕の観た映画のベストテンに入る「レイジング・ブル」など生々しい暴力描写で有名な監督だ。

原作は遠藤周作キリスト教信仰を主題とする小説で、あのスコセッシ監督が30年近く前から映画化を構想していたと聞き意外な印象を持った。

スコセッシは、ニューヨークのイタリア移民街で生まれマフィアが暗躍する社会で育ち 、子供の時はカトリックの司祭になろうと思っていたらしい。

なるほど、社会の底辺に身を置き気質的にも欠陥を持つ人間が、同時に社会に受け入れられたい希望も抱え、もがきながら生きていく・・的な作品が多いのはそうゆう背景があるのかと今更に思った。

遠藤周作は狐狸庵先生として親しまれ、テレビなどでも活躍した人気作家だ。

ユーモア溢れるエッセイもあるが、小説はシリアスで人間の本質的な問題に迫ったものが多い。

「沈黙」は、人生の一大事でも何も助けてくれない「神の沈黙」を通し信仰の本質を解明しようとした作品で、無信仰の僕でも考えさせられるものが大きかった。

映画を見て、カトリック信者でもあった遠藤氏のキリスト教の捉え方をもう少し知りたくなり「イエスの生涯」を読んだ。遠藤氏の解釈のよると神とは無力でただ愛だけの存在で、だがそこにこそ救いがあるとのことらしい。

難しいことはわからないが、「愛とは伴走すること」という氏の考えには賛同したいと思う。

 

 

 

それは禁句でしょ

街のそこここに春の息吹を感じる3月の昼、ランチでいつもの店に。

少量生産の選りすぐりの日本茶の飲める店だ。

週替わりランチの親子丼、これははずれのないメニューだ。

サービスで大棟(おうれん)と言うめずらしい品種のお茶を一杯だしてくれた。

茶畑のテッペンのほうだけで採れる品種だそうだ。

渋みもあるのだけどさわやかで、かつ少し甘みも苦味もある。

若干だけどハーブ系の薫りもした。

これまで味わったことのないものだったが気に入った。

冷茶にして刺身にも合いそうなお茶だ。

僕は、そうゆう時は素直に「これうまいね」と言う。

すると店主いわく「これは複雑な味で、〇〇さんみたいな上級者向きのお茶なんです」

ああ、それ言っちゃおしまいよ・・ 結構良い値段だったけど一袋購入しました。

まあおいしいならいいけどね。

さくら待つ 大棟うまし ランチかな

 

 

 

カバと思えば

僕は生来温厚なので、滅多なことでは怒らないが、人間が過剰な東京では、電車の中や路上の人混みで無神経な輩に出くわすことも多く、ムカつくこともたまにある。

ちょっと前までは大きな声を出し小競り合いになる様な無様なこともあった。そんなことをしてもますます気分が悪くなるばかりだ。

 

「怒らない方法」については仏教関係の本でよく述べらている。

いわく、人間は自我に囚われるゆえに、怒りや、悲しみなどの負の感情をもつ。したがって修行により無我の境地にいたれば苦しみから解放される。

なるほど〜と思い、僕も毎朝座禅を組み修行をしている。

その甲斐もあって近頃は怒ることも少なくなった・・・

な〜んてことはやはりない。

ちょっとやそっとの修行の真似事で悟りの境地に近づけるなら誰も苦労しない。

 

で、一つ簡単でいい方法を見つけた。

人が気にくわないと思うのは90パーセント以上人に対して起きる感情だ。

だとすれば、例えば道で3人も4人も並んで歩いて通行の邪魔になるやつらに会った時には、あれはカバの仲間たちが移動していると思えばいいのだ。

電車のドアの前で携帯に夢中になってる大男が突っ立っていたら、それは山の木(唐変木あたりか)が生えていると思えばいいのだ。

カバや木なら怒ってもしょうがない!

そう思う様にしてすれば、少しは心おだやかに都心の生活をすごせる様になる気がする。

ならば大都会東京も自然の木や石や野生の動物だらけの地になるが、なるほどコンクリートジャングルとはよく言ったものだ。

 

ステッキをもった歌姫

生きているといろんな人と出会うが、先日は心に残る人に会った。

仕事の関係の打ち合わせで、ハッとするような美人が来社した。プロのソプラノ歌手だ。彼女は杖をついてひとりでやってきた。まだ若い方なので、怪我でもされたのかと思ったら、昨年急病にかかり7か月の入院リハビリを経て2か月前に退院したばかりだそうだ。

もちろん病気のくわしいことなど聞けないが、杖なしで歩けるようになるのだろうかと、心の中で心配した。

あとで知ったが文科省派遣の留学でヨーロッパにも学んでいる人で、帰国後、オペラなど活躍の場をひろげてきた人だった。それが突然の急病となるとかなり落ち込んだことは容易に想像できる。

しかし、彼女からまったく暗い感じはうけず、とても丁寧で明るい印象だった。

それも無理してる感じはなく、本来そんなひとなんだろうと思える芯のある明るさだった。

もうすぐ300名位入る会場でコンサートの予定(主演)があるそうだ。

おそらくサポートする音楽仲間や熱心なファンもいるのだろう。

こうゆう人は神さまもちゃんと見ていると思いたい。

ただご活躍を祈る!

 

 

 

 

 

舞台「走る」を観て

池袋のサンシャイン劇場で、倉本總脚本の作品を観劇した。

若い役者が舞台を駆け巡る、といってもただ走り回るのではなく、いかにも走っているように見せるその場走りを繰り返しながら・・これはずっとジャンプしてるようなもので、体の消耗は相当激しい。その状態で観客にセリフをニュアンスまで伝わるように発するのはかなりの鍛錬がいるはずだ。まるでマラソンの選手のように鍛えられた体の走りをいろんな角度から見せる演出は、臨場感と躍動感があった。

作品では走ることと人の人生を重ねており、ランナーたちはそれぞれ長いレースでおこるさまざまな苦難に立ち向う。自己との戦いにくじけそうになったり苦痛に耐え必死に立ち向かっていくランナー達の姿を描く。

一人だけランナーではないリタイアした元企業戦士が登場する。

戦後の日本を必死に走ってきた団塊の世代の男性で、倉本氏が属する世代の男性像だろう。

この男性は仕事に人生の大半をささげてきたのだが、妻に先立たれ、娘とも自ら疎遠な関係をなし寂しく過ごしている。これまでの人生をふりかえり、これでよかったのかと自問するのだが、最終的には精一杯生きてきた自分を可とし、娘との和解を望む。

終盤ランナーたちは苦しみながらあるいは傷つきながらゴールしていく。

途中リタイアし救急車で搬送されたエイズの男のシューズを娘の伴走者としてレースの参加していた男が手に携え、ゴールしたシーンが心に残った。彼の魂はゴールしたのだ。

 

僕にはこの話は倉本氏の人生の自己肯定の物語に思えた。

苦難に耐えながら精一杯走ることが人として美しいのだ、私もそうして生きてきた。

そうぼくには伝わってきた。

劇中、一組のカップルが登場する、男は理屈が歩いてる(今回は走っているか)ようなやつで、彼女はこの男の後について走るのを最高の喜びとしている依存心の強い女だ。

ところがこの頭でっかちな男は途中で不調となり、ペースを落とし一緒に走ろうとする女を説得のうえ先に走らせる。結局女は颯爽とゴールし、男はヨレヨレになりやっとのことで完走する。本気をだした女にはかなわない!

これは「人生理屈じゃないよ」言いたいのだと解釈したが、結局目標に向かってひたすら走ることが是とされるようであまり好きではない。

この舞台でまさに描かれていたが、戦後世代が必死に走ってきたおかげで物質的には豊かになった。しかしディスコミュニケーションでバーチャルの世界に閉じこもる若者が増大する時代に心の豊かさは感じられない。これからはむしろ無理のないペースで走ったり、時には立ち止まることを学ぶべき時に来ていると思う。同じ価値観で一つの目標に大多数が向かっていく社会は異常だとそろそろ気づくべきだ。

僕もランニングをしておりレースでは少しでも早く走りたい気持はわかるが、ゴールだけが目的ならそれは結局お金だけが目的のビジネスと変わりない。ビジネスも成長神話に頼るのははもう無理だ。

走ることそのものを楽しむ、周囲の風景を楽しむ、沿道のお年寄りや子供の声援に笑顔で答える(美人の応援にはハイタッチ!)ことが走ることをより豊かな行為にすると思う。

そんなことを言うと軟弱ものといわれるだが、軟弱でなにが悪いのか?軟弱でも弱い者の味方もできるし、ゆっくりでも時間をかければ結構進むものだ。

「走る」は演劇にスポーツの要素を取り入れ肉体の持つダイナミズムを表現しインパクトのある演劇を実現したが、提示された価値感はややありきたりのものだったのが見終えた僕の完走いや感想だ。

 

 

京都途中下車

年末に北九州に帰省するのに早割り航空券がとれなかったので、ひさしぶりに新幹線で帰ることにした。ではと思いつき、京都で途中下車した。

京都で学生生活を過ごした知人から「年末の京都も年の瀬の風情があっていいですよ」と聞いたことがあったし、ちょっとまえに川上弘美の京都を舞台にした切ない短編「ぞうげ色で、つめたくて」を読んだこともその気にさせたのかもしれない。

 

今回は有名どころの名所旧跡には行かず、市中をぶらぶらした。

京都にはここ10年くらいほぼ毎年来てるので、有名どころはおおむね行ったのかなと思う。

こないだ友人から「京都のどうゆうとこがが好きなの?」ときかれた。具体的にいくつがあげることもできるけど、なんとなく居心地がいいってのが正確なところだろう。恋愛でもいっしょにいるとなんとなく楽しいってのが長続きするように・・

 

まづ聖徳太子創建と伝えられる六角堂(六角形の木造のお堂で隣のビルの上層階から眺めると正六角形の屋根を眺めることができる)にお参りした。ここには京都の中心を示す「へそ石」がある。六角形の石の真ん中に丸い穴があいている、なるほどへその穴と言うわけか(笑)隣には代々この寺の住職を務める池坊が始祖になる華道の池坊会館がある。

六角通りを一本下り(南にいくこと)蛸薬師通りを新京極方面に歩き、蛸薬師に。蛸のいわれはいくつかあるようだが、お堂にある木彫の蛸にさわると無病息災のご利益があるとのことで地域の人気を集めている。なお蛸にはなぜか左手でさわることとなっている。ぼくはこの12月に額をぶつけてちょっと怪我をした(無論酔ったうえでのことです)ので蛸の頭を入念に撫でておいた。

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その後年末で賑わう錦市場に立ち寄り、祇園まで歩いた。

四条大橋の真ん中からお決まりの鴨川の上流鞍馬方面を撮っていたら鳥の群れの往来に遭遇。こんなことは初めてだ。鳥は来年の干支、これは吉兆か!

風情ある石畳の祇園白川を回り、四条通に面した細い路地の奥にある喫茶店にはいった。京都は喫茶店の街でもあるらしいが、ベテラン夫婦でやってるここのコーヒーもおいしかった。時々カウンター脇から飛び出してくる人懐っこいシーズーの親子もお愛嬌だった。

 

夜は京都に出かけると大体寄ることにしてるお店「楽菜」に。モダンでこざっぱりした居酒屋さんってとこか。親子二人でやっていて、色白でイケメンの息子さんが調理担当、ちょっとお公家さんっぽい顔立ちの親父さんがカウンターに立つ。この親父さんが飄々としたいい感じで、時々ちいさな親子喧嘩を漏れ聴くのも恒例のようでよろしい。この日は蕪蒸しやテッパイ(蛸と九条ネギの和えもの)などを伏見の酒「松本」を飲みながらいただいた。おいしくてしかも価格はとてもリーズナブル、いつきても「あいてて良かった」って気分になる店だ。

 

そんなことで京都途中下車、余は満足であった。

これは癖になりそうだ。

 

 

ファンに勇気をあたえる試合だったが

トヨタカップの決勝を観戦した。

世界のレアル・マドリッド vs 鹿島アントラーズ(多分日本以外では無名)

試合は予想に反してアントラーズが大健闘!

イケメンJリーガーの柴崎が2ゴールを叩き込み、一時は1:2でリードする試合展開。

レアルのジダン監督もピッチ脇でまさに地団駄を踏んでいたところだ。

結局延長戦にもつれ込み真打のR・ロナウドハットトリックを決められ破れはしたが、アントラーズの最後まで諦めない姿勢はまさに見るものに勇気を与えうる試合だったと思う。

延長戦までスピードの落ちないアスリートたちのフィットネスの高さにも感心した。

 

盛り上がったゲームはさておき、この日のMVPのC・ロナウドはチーム年棒だけで60億円と聞く。試合前には彼の出ている健康器具のCM(腹筋シックスパック!のあれね)も液晶ビジョンに流れた。

ご招待いただいといてなんだが、僕の席のチケットも購入すれば数万円するだろう・・

試合にケチをつけるつもりはサラサラないが、スポーツの世界もしかりの商業主義が蔓延する世を過ごしてるんだな、とワクワクした気持ちと裏腹の思いが交錯した。師走の底冷えるスタンドで。