それも愛

性懲りもない日々をつらつらと

ゆきさんのこと

今はもうなくなってしまったが表参道にハナエモリビルがあり、その地下にさなざまな骨董屋が居並ぶアンティークマーケットがあった。

その店の一つが「ゆきむら」だった。10年ほど前上品なたたづまいの店に引き込まれるように入ると、細身の女主人・村上ゆきさんがいた。いちげんさんでしかもその世界に全く素人の僕に丁寧に対応してくれた。それから年に何点か気に入ったものを購入するようになった。骨董と言っても江戸時代とかのそれなりのものは手が届くわけなく、戦前のまだいい職人がいた頃の香炉とか竹細工の花器や朱塗りの食器とかだ。

ゆきさんはたいした買い物をするわけでもない僕をなぜか気に入ってくれたみたいで、顔をだすとお茶をだしいつも機嫌よく、品物の話以外にもいろんな昔話などもしてくれた。

ゆきさんが故郷の京都にいる頃、僕の故郷の福岡まで汽車で行った時のこと。

その後、青山学院に入学し、神宮外苑で行われた学徒出陣式に行ったこと、などなど。

断片的に話を聞くとどうやらご主人を戦争で無くしているようだった。戦後女手一つで表参道で骨董屋を切り盛りしてきたそうだ。(新参ものの女性で、いかにも古いしきたりのありそうな業界で苦労したことは想像にかたくない)

店に置いているものはゆきさんの好みで、上品なもの多かった。キワモノとゆうかえぐい感じのものは嫌いですと言っていた。時々店で会う馴染みのお客さんは立派な風体の人が多かった。(大学の教授とか)

店にはもう一人長谷川さんとゆう男性がいて、話をすると僕の大学の少し後輩で、学生時代にアルバイトで店にきていて、そのまま店に就職したとゆう変わり種だった。

長谷川くんは言葉少なな青年だったが、ゆきさんを尊敬し敬慕している様子が見て取れた。その後ハナエモリビルが建て替えになり、アンティークマーケットも姿を消し、店は移転したがお店(ゆきさんと長谷川さん)との付き合いは続いた。

ゆきさんは90歳で長谷川さんに店を譲った。ゆきさんの家は原宿にあり、一人暮らしのゆきさんの家を長谷川さんは毎日のように訪れ、なにかと面倒を見ていたようだった。時々街で、長谷川さんが少し体が弱ってきたゆきさんの手をとって歩く姿を見かけたものだった。

ゆきさんは今年、誕生月の2月、誕生日を迎えることなく亡くなった。93歳だった。

亡くなったあと長谷川さんに聞いて驚いたのだけど、ゆきさんのご主人は旧日本軍の軍医だったらしく、国外で捕虜収容所の所長をしていて、日本にゆきさんと引き揚げてきたのち、いわゆるBC級戦犯で有罪となり刑死されてたのだった。(長谷川さんはこの話を僕にする前に「おかさん、○○さんにこの話をしていいよね」と天に向かって声をかけた。プライベートではおかあさんと呼んでいたんだ)

ゆきさんはいつも朗らかな人だったが、どこか凛としていて奥に強い何かをひめている感じがしていたが、そんな苛烈な人生を歩んだのかと改めて感慨を覚えた。

ぼくは「ゆきむら」からゆきさん好みだった小村雪岳の版画2点を購入しているが、そのうち「蛍」に描かれた和服姿の細身の女性をみるとゆきさんのことを思い出す。